高村 光太郎について
高村光太郎とは
高村光太郎は、1883年3月13日東京市下谷区(現在の台東区)で長男として生まれました。
父親は著名な仏師・彫刻家として知られる高村光雲です。
1896年3月に、下谷高等小学校を卒業してから同年4月に共立美術学館予備科に入学し、翌年の8月に無事卒業しました。
翌年には東京美術学校の彫刻科に入学し、文学にも関心を寄せながら在学中に与謝野鉄幹の新詩社の「明星」に寄稿します。
1902年に大学を卒業してからは研究に励んでいましたが、1905年に西洋画科に移り翌年にニューヨーク、ロンドン、パリに滞在し西洋画を学びます。
4年後に帰国した時には、日本の美術業界に不満を持ち芸術家である父に反発した上、東京美術学校の教職を断ってパンの会に参加し「スバル」などに美術批評を寄せました。
1912年、駒入にアトリエを建て「岸田劉生」らと共に第1回ヒュウザン会展に油絵を出品しています。
最後の作品は妻智恵子の像
1914年に「道程」を出版し、同年長沼智恵子と結婚し共同生活がスタートします。
しかし、アトリエで制作をしている時期に、妻智恵子の実家が破産したことをきっかけに妻の体調が崩れ、統合失調症を発病してしまいます。
1938年に最愛の妻と死別し、3年後には「智恵子抄」というタイトルの詩集を出版しました。
智恵子の死後は、真珠湾攻撃を賞讃し戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し歌謡曲の作詞などを手がけました。
しかし、1945年の空襲によって多くの彫刻やデッサン、アトリエまでも焼失してしまいます。
空襲による被災を受けた光太郎は、多くの戦争協力詩を書いたことに対し自省の念を抱き、粗末な小屋で7年間独居自炊生活を送ることになりました。
最期は、肺結核のため73歳でこの世を去りましたが、著名な芸術家・詩人であるとともに、人間の道を最後まで探求した名高い人物として称されています。
最後の作品に妻智恵子の像を残したことから、一人の女性を愛し続けた彼の人生が称されています。
高村光太郎の代表作品
高村光太郎は彫刻以外にも詩集や歌集、随筆など様々な作品を残しています。
中でも代表的な作品が下記に挙げたものです。
【詩集】
【歌集】
【美術評論】
【随筆】
【彫刻】
光太郎の生涯は苦悩に満ちた人生でしたが、決して不幸ではないという証拠に40年以上にわたり一人の女性を愛し続けていたという思いが残されています。
光太郎が制作した作品は数多く出典されており、現在も高い価値を持っているものがほとんどです。