荒川 豊蔵について

荒川 豊蔵について

荒川豊蔵とは

荒川豊蔵とは1894年(明治27年)3月17日に、岐阜県土岐郡多治見町で誕生しました。
陶祖、加藤与左衛門景一の直系で、母方は多治見市高田で製陶業を営んでいました。
そのため、桃山時代以来からの美濃焼の陶工の血筋を継いで生まれてきたといっても良いでしょう。
1906年に12歳で多治見尋常高等小学校高等科卒業し、その後は神戸にある貿易商能勢商店で働いていましたが、翌年には多治見に戻って、地元の陶磁器貿易商木塚商店で働くことになりました。
14歳で結婚して長男が誕生し、働いていた木塚商店が名古屋で商売を始めることがきっかけで名古屋に移り住んでいます。
1922年、28歳の時に上絵付の仕事で宮永東山を知り、そこで東山窯の工場長になりました。
1925年には食器の研究で東山窯を訪れた北大路魯山人と出会い、親交を深め、北大路魯山人に招かれた鎌倉の星岡窯に移って働くことになります。
志野茶碗が瀬戸で焼かれたという説に疑問を感じ、魯山人と一緒に美濃の大平や大萱の古窯跡を調査して、桃山時代の志野が美濃で焼かれたことを確信します。
そこから、志野は自分で作ることを決意して、桃山時代の志野や瀬戸黒の復興のために力を尽くしてきました。
志野は、筆で模様が描かれている日本で最初の焼き物とされていますが、創設者や箱書きなどもなく謎が多い焼き物ですが、荒川豊蔵が苦労して時間をかけた結果、昭和になって志野の再現や復興に成功することができました。
それ以降志野と瀬戸黒の人間国宝に認定され、最高峰の陶芸家になりましたが、陶芸展にも出品を続けていき、陶芸家としての生涯を送っています。

荒川豊蔵の作品

荒川豊蔵は「随縁」という言葉に思い入れがあり、志野の茶碗にも「随縁」という銘をいくつか付けています。
志野茶碗以外にも、鼠志野茶碗や瀬戸黒茶碗、信楽茶碗でも「随縁」と彫りこんであり、荒川豊蔵にとって「随縁」は座右の銘でもあったようです。
随縁の意味は、縁に随(したが)うということで、この世は縁で結ばれているため逆らうことなく、随って生きるのがよいといったような意味がある仏教用語です。

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